備忘録

まえがき

 

先程の出来事で、感じたままを書き留めておきたいと強く思い、半ば衝動的に筆をとったため(いやスマホやろがいというツッコミは甘受します)曖昧で稚拙な部分が多いです。

 

本文

 

1回目の緊急事態宣言発令〜6月くらいにかけて、毎日繰り返し聴いていた曲がある。その曲を聴かなかった日はないと自信を持って言えるほど、ずっと聴いていた。

私は往々にしてそういう曲の聴き方をする。一旦ある曲の魅力に取り憑かれたら、しばらくは離れることができない。何かの作業をする際にはBGMとして流し、何もしていないときはイヤンホホで耳に蓋をし、その音楽の世界に入り込む。

 

ベースラインの響き方、空間を感じさせるギターのカッティングの残響、息継ぎの音、声のかすれ方、幾重にも重ねられたハーモニー、ボーカルの少し癖のある発音。

その他にも様々な音の要素が全て耳にこびりついて、最早聴かなくてもそれらが頭の中でそのまま再生されてしまう。それくらい聴き込む。

 

そのフェーズに入っているとき、「飽きる」という概念は消え去るのだ。

 

当然、そのフェーズには必ず終わりがくる。聴き飽きるタイミングがどこかで必然的に訪れるのだ。

しかし、その「飽き」を自覚していないので、「聴かなくなった」ということを認識していない。文字通り「いつの間にか」その曲の世界からすっぽり抜け出している。

 

今なぜ「備忘録」というタイトルで文をしたためているのかというと、つい先程、今まで自覚することのなかったその「飽き」を初めて認知したからだ。

 

ただし、ここでいう「飽き」は対象に魅力を見出せなくなったのではなく、単に聴かなくなったという状態のことだけを指す。

 

事の発端はほんの些細な出来事だった。Billie Eilishの楽曲のミュージックビデオでどうしても見返したい箇所があり、YouTubeで検索をかけていた。しかし、どの曲だったかが思い出せなかったので片っ端から再生していたのだ。

 

すると、ある曲を再生した途端、全身が強張る感覚を覚えた。それが、3月〜6月にかけて毎日聴いていた曲だった。

 

鳥肌が止まらなかった。まるで「飽きる」という言葉を知らないかのようにあれだけ聴いていて、明日も明後日も「その曲を聴き続けている自分」がいると当たり前のように信じて疑わなかったのに、いつの間にかいなくなっていた。

 

「この世で一つだけ変わらないことがあるとするならば、それは"全ての物事は変わっていく"という事実だけである」

 

どこかで一度は聞いたことがあるだろう。頭では理解しているつもりだったが、経験に則った理解はしていなかったのかもしれない。

 

また、ただその曲を聴かなくなっていることに気づいただけではなかった。それを認知した途端に無性に悲しくなったのだ。これも初めてのことだったので、備忘録として記しておきたいと思う。

 

昔ハマっていた曲を久々に聴いたときに懐かしいと感じるのはよくあることだが、「悲しい」が先にくるのは初めてのことだった。

 

こういった類の唐突に訪れる感情は、頭で考えるよりも前に襲ってくるので理由を紐解く必要がある。

 

少し思い巡らせてみた今、100%の答えに辿り着けた感覚はまだないが、考えうるのは「事実」だと思っていたものが「単なる思い込み」だったことに対する絶望なのかもしれない。

 

「自分の感性は変わらない」という事実(だと思っていたもの)は、今しがた、覆されてしまったのだ。

 

言い換えれば、1年前の自分と今の自分と1年後の自分に同じ質問をされたとしても、同じ答えが返ってくるだろうというなんの根拠もないある種の高慢さだ。

 

人の考え方や感じ方は、そのスピードに個人差はあれど、変わっていく。それは至極当然なことである。しかし、どこかで「自分だけは」と鷹を括っていたのだろう。所謂、正常性バイアスみたいなやつ。でもそうではなかった。認知が歪んでいたのだ。

 

別に、自分が時間や環境の変化に伴って変わっていくことはなんらおかしいことではないし、ネガティブに捉える必要はない。

 

ただ、過去の自分と今の自分が対話しても、理解し合えないのが少しだけ辛いのだと、今回の経験ではっきりした。

 

過去の自分「この曲むっちゃいいよな。半年後も今ほどではないかもしれんけどたまに聴くんやろうな。」

 

今の自分「今は全然聴いてないよ。言われるまでハマってたって事実さえ忘れてた。確かにめちゃくちゃいい曲やし今聴いても魅力的やけど、なんでか今気づくまでは聴こうとさえ思わんかった。」

 

過去の自分「まじで?こんなに耳に残るのに忘れるん?パタっと聴かんなるん?段々聴かんくなったん?いつから???」

 

今の自分「それすら分からん。なんでやろ。ほんまにいつの間にか。でも久々に聴いてみたら半年前のことが鮮やかに蘇ってくるな。あのときは未知のウイルスが怖くてコンビニ行くのも億劫だったよな。」

 

過去の自分「もう"懐かしい"って感覚で今を振り返っとるん?今のこの気持ちとか状況とか、そっちではもう続いてないん?こんだけハマっとるし、あつ森はさすがにやめてないよな?」

 

今の自分「今はコンビニ行くくらいなら全然怖くないしなんならご飯食べに行くことやってあるよ。さっと食べてさっと帰ってたら感染のリスクはそこまで高くないしな。あつ森もやめたわけじゃないけど全然やってない。すまん。多分草花生え放題。」

 

過去の自分「あつ森まで、、、

 

そうか、今の自分はもうそっちにはおらんのか。」

 

本当にこんな風に会話するわけではないが、少しイメージしやすくなったのではないかと思う。こんな具合に、段々と過去の自分と分かり合えない部分が増えていくことを悲しいと感じてしまう。

 

きっと、先程の悲しみの正体はほとんどこれだと思う。自分の中に起こりつつある変化を認めるのはめちゃくちゃ苦しいということに気づいた。

 

多分、この文章もいつかの自分が読めば「過去の私はこんな風に感じていたんだな」としみじみ思うのかもしれない。

 

ここまで読んでくれた優しくて忍耐力のあるあなたへ。好きです。ありがとうございました。