記憶、記録

まえがき

 

よく分からんブログを開いてくださって

ありがとうございます。

本文には、「(特に日常の)記録」に関してあくまで私が主観的に感じていることについて書かれています。これが絶対的に正しいと考えているわけではありません。記録にこだわらない方たちを否定したいわけでもありません。それも一つの素敵な考え方だと思っています。

 

もし読んでくださっているあなたが記録にこだわらないという方だったとしても、この文章はあなたへの否定の意味を一切含みません。カレーとシチューならカレーが好きかな!私がカレーを美味しいと感じる理由はね、くらいのテンションで話していると思ってくださるとありがたいです。シチューも好きなので。

各文章の終わりに(私の場合はね)と脳内で補足していただくと、そのテンションが伝わるかなと思います。それでは!

 

 

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クリスマスでもなく、誕生日でもなく、

運動会でもない、「日常」の記憶

 

とてもとても貴重で愛おしくて、

しかし最も忘れてしまいがちな「日常」

 

 

今はもういない大切な誰かを思い出したいとき、

思い返すのはパーティーをした日のことだろうか

共にジップラインに挑戦してみた日のことだろうか

コンサートに一緒に行ってはしゃいだ日のことだろうか

 

もちろんどれも素敵な思い出であることには変わりない

 

でも、私が大切な誰かとの時間を反芻するとき、

最も鮮明に思い出したいと願うものは

それらとは全く違う場所にある

 

私とその人とのあいだに息づく、静かな日常である

 

だれかとの関係が築かれる瞬間の多くは、

共に過ごしながら流れていく時間の中に

溶け込んでいる

 

きっと誰しもがそうだろう

 

非日常はそれ自体が新鮮な体験として

意識せずとも勝手に頭に残ってくれる

 

日常はどうだろうか

 

“その人がどんな表情で日常の中に佇んでいたか”

“その人の暮らしの眼差しの先に何があったか”

 

なんてよっぽどじゃない限り

克明に思い出せるはずなどないのだ

 

それでも皮肉なもので、

そういうささやかなものほど

あとになって強く抱きしめたいと願ってしまう

 

朧げな記憶では抱きしめられないのだ

 

掬おうとすればするほど脆くなり、

かけらが指の隙間からこぼれ落ちていく

それほど人間の記憶とは曖昧である

 

記憶は簡単に嘘をつく

記憶がつく嘘が美しいときもある

 

だが記録は嘘がつけない

 

だからこそ、

 

暇を持て余して退屈そうにしている姿も

笑いに顔を歪ませるあのへんてこで愛くるしい顔も

よく分からないけどじわじわくる言い間違いも

その人特有の歩き方も

 

全てをあるがままに映し出し、残してくれる

 

それらは“今は”特別見返すほどのものではないかもしれない

 

しかし、月日の経過がそれを変えてくれるのだ

何物にも代え難い宝物に

 

例えば

 

10年後の自分から見れば、今は10年前になる

10年前(現在)のあの人との日常を

振り返りたくなったとしても、記録がなければ

きっと記憶に補正がかかったり抜け落ちたりして

正確には思い出せないだろう

 

無論、10年後の自分は

10年前(現在)のあの人に会いに来ることはできない

 

言うまでもないくらいとても当たり前だけど、

当たり前すぎて、基本的すぎて

改めて意識することがない

それ故に記録を疎かにしてしまうのだ

 

何年も経てば、軋んで開かなくなってしまう

記憶の引き出しもたくさんあるだろう

 

そうなったとしても、

「タイムスリップしてあの人に会う」

というSFじみたことが

記録によって部分的に可能になると考えれば

私がいかに記録を重宝しているかが伝わるのではないだろうか

 

記憶の中の、輪郭のぼやけかけたあの人が

記録の中でより色濃く、鮮明に蘇る

 

 

だから、今、10年後やそのずっと先の私が

「忘れたくない、思い出したい」

ときっと思うであろう日常の瞬間を記録に

 

そうしたら、カメラを閉じよう

大切な人とのひと時を心ゆくまで楽しむために

 

 

 

 

 

 

記録とは

未来への資産である

 

 

記録とは

救いである

 

 

 

 

 

 

 

ちんたらと長い文章に

ここまで付き合ってくださった

優しくて心の広いあなたへ、

 

愛しかないです。ありがとうございました。